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【アラベスク】  第9章 蜜蜂



第3節 gossip [10]




 まったく知らない他の人間と一緒に、嫌いな英語を教え込まれる。考えただけでゾッとする。どうしても逃げたかった。
 だから逃げた。
 夜の街を当てもなく歩き、だが根性もいくじもない瑠駆真に、家出などできるはずもない。ヘトヘトになり、腹が減り、結局家へと舞い戻った。
 帰った家に、母はいなかった。



 陽翔と瑠駆真。二人が向かい合うすぐ横に、小さな公園が佇むように広がっている。
 公園を覆うように植えられた木々。長引く残暑の影響で、今年の紅葉は遅れる見込みだ。それでも、やがて葉は色づき、風に吹かれて宙を舞う。
 あの日は、風が強かった。昼間は雨だった。
 風に舞う葉が濡れた神社の石段にへばりつき、滑りやすくなっていた。夜も遅く、足元を照らす明かりもなかった。
 母は、頭部を強打して意識を失った。たまたま通りかかった帰宅途中のサラリーマンが見つけなかったら、朝まで石段の下で倒れていたのかもしれない。
 救急車で運ばれた病院で、しばらくは息があった。だが意識を回復する事は、最後までなかった。

「明日からは、必ず教室に出るのよ」

 その言葉が、瑠駆真の聞いた最後の言葉。
 最後まで英語かよ。
「僕が殺したんじゃない。あれは事故だ」
「事故?」
 虚ろだった陽翔の瞳に光が宿る。それでいて、何かに取り憑かれたかのように繰り返す言葉。
「事故? 事故だと?」
 まるで何かが覚醒したかのよう。陽翔の全身を、激しい戦慄のようなものが走り抜ける。
「事故だとっ」
 声を上げ、瑠駆真に飛びつく。あまりの勢いに瑠駆真は動けない。
「なっ」
 かろうじて声をあげようにも、あっさり陽翔に遮られる。
「事故? お前、よくもそんな事が言えるな。初子先生を殺しておいて」
「僕が殺したんじゃない。何度も言わせるな」
「お前が殺したんだよっ!」
 それは今までのような掴みどころのない、不確定な雰囲気を漂わせた陽翔ではない。今の彼を包むのは激情。押し殺そうにも溢れてくる怒り。
「お前が、お前なんかがいなければ、初子先生は死ななくても済んだんだ」
「っ!」
 両肩を砕かれるかと思うほど握り締められ、逃れようと後退して公園の柵に押し付けられる。日ごろの態度からは無気力な人間ではないかと思われる小童谷陽翔の身体にも、これほどの力が宿っているのか。
 痛みに耐えながら向かい合う先。鬼のような瞳がこちらを睨む。紅く、まさに燃えているのではないかと、紅く見間違(みまちが)えるほどの瞳が瑠駆真を射抜く。
「初子先生を殺しておいて、自分だけ、自分だけシャアシャアと幸せに暮らすなんて、俺は絶対に許さない」
 まるで、自分が殺されたかのような言い草。
 許されるのなら、ここで首を絞めて殺してしまいたいと思う。
 だが、陽翔は瑠駆真の首を絞める事はしない。
 そんな事をすれば、人を殺したなどという事が初子先生に知られれば、きっと先生は悲しむ。
 そうだ、先生は今も俺の傍に居る。傍に居て、俺を見てくれている。
「絶対に許さないぞ。お前の恋路なんか滅茶苦茶にしてやる。されて当然だ」
「お、まえ」
 瑠駆真はようやくそれだけを吐く。肩に食い込む陽翔の指は、指自身をも折ってしまいそうなほど力強い。
「お前、母さんの事が―――」
 その言葉に、陽翔は破顔した。
 瑠駆真は絶句した。それほどまでに嬉しそうな、心の底からの心情を見せる陽翔を、瑠駆真は初めて見た。
 小童谷陽翔と出会って、まだ日は浅い。中学時代の陽翔など知らない。だが瑠駆真には、今目の前に出現した陽翔の笑顔が、心底本当の、この上ない幸せを含んだ笑顔なのだと、そう理解できる。
「そうさ」
 呟く唇が微かに震える。嬉しいからか、それとも哀しいからか。
 指先に力を込めたまま、陽翔はそのまま溶けてしまうのではないかと思われるほどの淡い想いの中で呟いた。
「俺は初子先生が好きだ」





 ぼんやりと、明かりも付けずに美鶴はソファーに身を埋める。
 昼間、聡が図々しく腰を下ろしていた場所。他人の家に押しかけてきたという認識はあったのか、食べ散らかし飲み散らかした後片付けはしていった。
 暗闇の中でぼんやりと虚ろに過ごす。
 聡は、もうすぐすべてが解決すると言った。義妹が撤回して、美鶴の謹慎は解けるのだと。
 別に聡の言葉を信用したワケではないが、それでも、そのうち学校から電話でも掛かってくるのではないかなどと、思ってもいた。
 だが、電話は無音のまま。







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